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サオ族


【族群について】

35くすの木でできたサオ族の船1900年5月17日撮影

サオ族の服装

サオ族は自分をthao或はthawと呼んでます。日本時代日月潭の岸辺に住んでいたサオ族の族群分類が曖昧のままで、伊能嘉矩、粟野伝之丞がブヌン族の一群にする、森丑之助がサオ族の「阿里山から日月潭まで白鹿を追っていた」の物語を根拠として阿里山北ツオウ族の一群との説があった。このために、長い間サオ族が阿里山のツオウ族の一群として認定されてきた。民国後学者たちが言語学、人類学、生物学色んな点から族群分類の研究に力を入れた、一般的にサオ族と平埔族の方が緊密な関係を持っているとの認識です、でもある学者がブヌン族の方が関係深いと強調する、他にも独立な族群と認めるべきの説もあり。
2001年8月林修澈から行政院原住民委員会にサオ族の正名活動に関する報告を提出した、生物人類学者陳叔倬が1996年に発表した研究報告を引用して「サオ族とツオウ族二者の遺伝距離が遠い、起源も違います、無理やりサオ族をツオウ族に配属させる根拠がないです。」の原因で2001年9月政府からサオ族がツオウ族から脱離して台湾十番目の原住民族であることを正式に発表しました。長い間身分が不明のまま続いてきました、ついに学界、地方研究者とサオ族人の努力でサオ族の地位がやっと確認できました。

 

【地理上の分布】

サオ族人は台湾中部南投県内(東経120°55'北緯23°52')、日月潭の周辺に住んでます。サオ族人の経済生態が日月潭特別な漁業の発展と観光産業に大きく影響され、もっともわかり易いのは住むところは観光区域ですから、全ての伝統祭儀と行事は政府の色んな中秋観光祭り計画に配属され、この状況でサオ族が対内(伝統方式の行事)と対外(観光需要の演技行事)の対策生み出した、この方法で伝統が維持できるし、政治文化と観光文化の需要にも対応できる。ですが物質などの外力の介入で、儀式観光の演出が常に「難航」になってしまった。

 

サオ族群の配布図

サオ族のラル島(光華島であり)

水社の商店街

言い伝えによるとサオ族の原居住地はpuzi(漢の発音:土亭)だった、清康煕年間にlalu(今の光華島)珠仔山に移転した、部屋の周囲が畑に囲まれた。清道光年間に日月潭の岸辺へと転向した、魚池(審鹿、沈鹿、沈禄或は審轆)、猫蘭(今の中明村)、水社(水社、石印、茅埔などを含む)、頭社で集落を形成した。清光緒年間に漢民族の侵入で、魚池に住む住民が北の新興庄へ、猫蘭のは北の小茅埔へと移転した、水社の住民が大茅埔、石印、竹湖方へと移転した。日本殖民時代に新興庄と竹湖が石印、頭社の部分と合併して大平林へと移転した。

徳化社と大平林はサオ族の二大集落でる。総人口は300人足らず。昔サオ族が水沙蓮地区で主導権を握っていたが開墾、漢民族との結婚、移転とマラリアなどの原因で人口が大量に快速的に減りました、これらは漢民族の開墾と族群の交流と深く関わります。歴史家の陳計堯の研究によると日月潭地区の原住民集落が約17世紀末から18世紀初期に一定の形になり、彼は当時日月潭地区に水裡社、頭社、社仔社、猫蘭社、審鹿社、木屐蘭社、福骨社の七社が存在していたと推測した、19世紀に入ると日月潭地区には「群体」の形の集落が現れ、その後も四回の大移動が行われた。

日本昭和六年(1931年)六月台湾電力株式会社が日月潭の工事を始めた。昭和九年(1934年)七月大観発電所が完成した、湖の水面が21メトルもあがったため、潭の南に住んでいた石印のサオ族人を漢民族の居住地だったト吉(今の徳化社)一帯(剥骨或は北窟)へと移転させ、ト吉社にいた漢民族を員林、二水へ。ト吉社移転させた後、日本政府よりサオ族人の隔離政策が実施され、サオ族人がここからの出入りが禁じされ、漢民族の遷移も禁ずる。ダムができてから日本人が観光に力を入れました、サオ族人も観光事業に参加し始めた、二次大戦後漢民族の遷入藻増えてきた、サオ族と漢民族間に土地に対する争いも一段ひどくなる。


【居住の形態】

今サオ族最大の居住地は徳化社であり、行政上は南投県魚池郷の日月村に配属する。徳化社の反対側に水社がある、日月潭最大の観光地でもあり、以前の水社はサオ族の居住地でしたが今は漢民族が住んでいる。メインの日月潭環状道路以外に徳化社部落南部から小さい路でブヌン族の卡社の潭南集落まで行けます、そして、直接信義郷のブヌン族の集落地利と雙龍までできます。東北へ行けば魚池を通して直接仁愛郷の過坑、武界のブヌン族の部落まで行ける。この二つのブヌン族の部落がサオ族と深い婚姻関係を維持してます。

日月潭徳化社現在の規模は1980年の土地計画と1999年の921大地震後の再建によて形成するものです、観光事業の発展で日月潭の集落が商店街の風景に見られる。地震前の集落はサオ族人と漢民族が一緒に住んでいて隣同士で違和感がなかった、921地震後村人の建物がほぼ破壊され、政府と民間チームが山地文化パークの予定地にサオ族文化協会、政府、建築士と民間の支援金によって42軒の仮設住宅を作りました、仮設住宅の分配がサオ族伝統信仰の公媽籃の有無で決めます、同時に伝統的な祭儀の場所と部落教室も設置する。漢民族と区別するために、仮設住宅の申請は伝統祭儀用の「公媽籃」を持つサオ族人に限られた、サオ族と漢民族一緒に住んでた集落がまるで二つの集落になりました。

 

【祭儀文化と宗教信仰】

サオ族の杵音

公媽籃

先生媽

標本文物-背負いカゴ

標本文物-むしろ

「公媽籃」は丸い口と四つの足を持てる藤で編み出したカゴです、サオ族人祖霊信仰最大の表徴です、中には祖先の衣服と飾りもの置かれています、他には所有者夫婦の衣服も入れてます、「公媽籃」がその家の祖霊の存在を意味する。さお族が人は亡くなったら祖霊になって「公媽籃」に戻って子孫の祭祀を受けます。ただ皆祖霊になるとは限らない、最も影響されるのは婚約者です。サオ族は外部の人と結婚するルールがあります、同じ氏族の男女の結婚が禁じられる、但し、姓が違ったら親族関係を持つ男女の結婚が許される、しかし、長い間サオ族の人口比率は女性より男性の方が多い、氏族外部の人と結婚するルールの影響で、サオ族の男性が近隣部落の女性と結婚することが多い、地理上の関係で漢民族とブヌン族の女性が婚姻関係でサオ族に受け入れるのチャンスが多い、陳奇録さんの研究で1955年から外族の人口数は約30パーセントで部族の人口構造に大きく影響してます、その変化と衝撃は人口構造だけではなく、物質的文化と部族へ一体感、認同などの面にも深く影響される、身分認同の問題を解決するために、サオ族は「爐主」と言う制度から「祖霊認同」の儀式を創り出して、外族からの嫁入り、婿入りらをゆっくり同化させてサオ族の血脈を確保する。

「爐主」をやったことのない婚約者が、儀式で夫の家族の一員としては認められないだけではなく、死後も祖霊になれない、毎回の祭儀に彼女の名前を読まれることはない、だから婚姻関係を経由してこの家の正社員にもなれません、必ず「爐主」このような特殊な制度によって、個人のbahi(霊魂)を儀式で転換、回転させてから正式にこの家正社員になれる、そして、死後の地位も守られる。だから、サオ族人霊魂の流動と身分の取得との間に深い関係があります、ある意味、サオ族人が理想な人間への憧れともいえるでしょう。

 

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