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サキライヤ族


【部族について】

サキライヤ族(Sakizaya)は、アミ族で「Sakiraya」、クバラン族で「Sukizaya」と呼んでます。サキライヤ族中の飽干(Cipawkan)系統が自分を「Sakizaya」と称する、達故部湾(Takoboan)系統が自分を「Sakidaya」と称する、飽干(Cipawkan)系統は「Z」の発音で、達故部湾(Takoboan)系統が「D」の発音にする。サキライヤ族は元々奇莱平原(花蓮平原)に散在していた、大体今の花蓮市内辺り、昔の花蓮は奇莱と呼んでいた、アミ族が「Sakiraya」と呼んでその省略が「kiray」です。Sakizayaは「本当の人間」と言う意味で、その特定の人たちが話す言葉も「Sakizaya」と呼ぶ。サキライヤ族のと周囲のアミ族(Natawran荳蘭、Pokpok薄薄、Lidaw里漏、Cikasuan七脚川)などとの間に言葉の差異があまりにも大きいすぎるから殆どコミュニケーションことが出来なかった。

 

【地理上の分布】

水璉部落の景色

サキライヤ族の集落の分布は主に台湾東部にある、大体今の花蓮県内にあった。19世紀半ば以前の活動範囲は花蓮平原に過ぎない、加礼宛事件の敗戦で大量の漢人が花蓮平原に逃げ込んで、日本統治時代に労役を避けると水災のために、サキライヤ族は花蓮平原に小規模の遷移と共に平原以外のところへ大規模の遷移活動もし始めた。今のはサキライヤ族が主に北埔(Hupo')、美崙(Pazik)、徳興(Sakor)、主布(Cupo'、Kasyusyuan)、月眉('Apalu)、山興(Cirakayan)、水璉(Ciwidian)、磯崎(Karuruan)、馬立雲(Maibor) などの集落に分布しています。他はアミ族の集落に散在してます、工業の発達で北部へ移住する人も増えてきた、現在登録の族人は約5000人ぐらい。

 

【社会組織と構造】

黒い服を着る婦人

サキライヤ族は母系社会です、婿入りの制度、妻の家族と同居する、主に花蓮平原に散在するから同時に農業と漁業の経済生業を発展してきた。近代になるとカバラン族との接触が早くから行われ、彼らから水田耕作を学んだと言うことが分かっています。、水稲の栽培する歴史は非常に早いです。
サキライヤ族の部落に、アミ族と似てる年齢階層組織がある、日本学者の資料によると、日本統治時代に徳興(sakor)の年齢階層(sral)は五年を単位にしる。男子は幼いから15歳までの時期は幼年級(wawa)です。15から23歳の時期は青年級(kapah)の予備階級です、青年組前の未成年組に参加すること義務がつけられます、この階級はMasatrotと呼ばれます、この時から青年集会所(taloan)に合宿して上級階級の命令と指揮に従って訓練を受けます。

 

【生産方法と食文化】

早期のサキライヤ族人が粟と米を栽培した、特に赤いモチコメは主食でした。農作物には今のように丁寧ではなっかた、定期的に雑草を取るだけ。暇の時に食物として鳥、鼠などの動物を捕る。サキライヤ族はよく山菜を食べる民族です、他の民族が山菜を食べるのはサキライヤ族に真似すると自分が思います、しかし、牛が食べる植物が食べないこと。農作物を採集する前に、先ずbalidas (タイワンくろつぐ)のところにその葉を編んで、balidasで稲穂を縛ります、この時家族全員集まって、酒を飲んだりモチコメご飯を食べます、balidasを用意して、今年の豊作を神様に感謝して、そして、もち米三枚を用意して、門のところに置きます、mapalaway(巫女)を迎えます、酒とビンロウを玄関に置いて食べ放題。

 

【祭儀文化と宗教信仰】

火神祭の儀式の祭司

火神祭の祭品

火神祭の聖火、祭品、花棺、頭目

火神祭の期間に参加者のための鬼払い儀式

サキライヤ族の神霊はditoです、アミ族のkawasと相当する。撒奇萊雅族稱神靈為dito,相當於阿美族的kawas。サキライヤ族では万物有霊、超自然の力が存在すると信じられており、神の霊はまた祖霊を含むとされています。ただし祖霊の位置は予測不可能であるため、固定の場所は分からず、祭司(mapalaway)だけが祖霊とコミュニケーションを図ることができると言われています。人の生と死が共に神霊の影響を受けてます、女性の妊娠、人の誕生は神霊が体に附着するからこそできました。人が死だと同時に神霊が体から抜け出す。神霊以外にも他の神が存在することを信じてます、例えばMalataw‧Otokiは人間の祖霊、Olipongは病を払い出す神様、Talaman、Takonawanは貧乏の神様です。


人が死んだら、ditoは死亡の霊に属する、彼の魂は米崙山(今の美崙山)の窪むところを通して東の方へ向かう、海のところへ行く。祭儀の時に祖霊達は海辺から米崙山を通して再び祭儀の場所に戻る、普通に祖霊は紅い服を着る、祭司(mapalaway)しか見えません。


Palamal火神祭はサキライヤ族最大の祭典であり、これはサキライヤ族伝統の祭典ではなかった、加礼宛事件で犠牲になって民族の英雄Komod Pazik、妻のIcep’Kanasawと亡くなった族人を記念するために祖先祭を基について拡大にすることで今のPalamal火神祭が出来た。儀式は五つのプロシージャ(序曲、迎曲、祭曲、火曲、終曲)に分けてます、陽が沈んでから始まります。先ず儀式の指揮官と監察官から会場にある木材に火をつける、そして儀式の手順を皆に説明して、加礼宛事件で犠牲になった英雄たちの功績を語り、皆にこの悲惨な過去を忘れずに、自信を持って民族の自尊を取り戻すのは目的です。

 

【居住型態】

早期サキライヤ人の集落の外側に防衛のために竹林が植えられて、高い監視台が建てられた。集合する時に太鼓を叩く、あまりにも広いから必要な時に監視台に木を叩き、叩きの回数は集合、緊急など状況によって違います。
集会所と普通の家の構造は、丈夫的かつ堅い木材で柱を造り、横の柱は竹を使い、屋根は乾燥のススキ草で厚く敷きます、籐で固定する、長老の話によると、出来た屋根は鳥の尻尾を高く上げるように見えます。

 




















【族群と政府の関係】

帝瓦伊.撒耕校長より
早期のサキライヤ族の集落制度を紹介する

サキライヤ族正名会場の写真

1878年(光緒4年)に、サキライヤ族とクバラン族は自分の生活領域を守るために清朝と戦った、これは歴史に有名の「加礼宛事件」です。事件後サキライヤ族の居住地が陥落して、土地は政府のものになった、サキライヤ人の農業活動も禁じされました、奇莱平原の主役だったサキライヤ族の居る場所がなくした。一部のサキライヤ人居住地で部落を再建しようとしたが、何もかも破壊され、元にも戻れなくなった。他のところに散在するサキライヤ人は二度と居住地に戻らなかった、彼らはアミ族と結婚して、アミ族の集落に住みつける、或は他のところに新しいサキライヤ人の集落を作ります。政治からの加害を避けるためにサキライヤ人はアミ族の集落に身を隠す、他人に自分の出身を言わず、アミ族の言葉を学ぶ、自らじぶんの固有文化を捨てることになった。早期のサキライヤ族は花蓮平原に住むアミ族との交流が頻繁だった、文化と生活習慣にある程度似ている、加礼宛事件以後、清朝の復讐から逃げるために、わざとじぶんの身分を隠す、ますますサキライヤ人とアミ人を見分けすることが難しくなった。そのために、日本統治時代に入ると、大規模な原住民調査を行い、一支族として分類された言葉の保存、文化の振興とサキライヤ族が実際に存在してますの意識をよみかえるために2005年10月13日に政府に民族正名申込書を提出した、民族の認めを要求する、そして、2007年01月17日に正式に台湾13番目の民族と承認されました。
 

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