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クバラン族


バランカリワン群の古い写真

【族群について】

クバラン族にはいろんな読み方があります、例えKavalan、Kuvalan、Kvalan、Kbalan、など、今は“Kavalan”を使います。中国清朝の文献に蛤仔難或いは蛤仔攔と呼ばれた、以後はクバランと呼んでます、クバランは“平原”の味でした。

クバラン族は清朝の時に漢化が進んでるから「生蕃」(帰化生蕃)、「後山生蕃」に分類され;嘉慶15年(1810年)にクバラン族が清朝に「帰化」して「熟蕃」に配属された。日本統治時代、清朝の原住民政策をそのまま続きました、台湾原住民を「生蕃」と「熟蕃」に分類した;昭和10年(1935年)台湾総督府が「生蕃」を高砂族に、「熟蕃」が「平埔族」に改名した。噶瑪蘭族在清代依據漢化程度曾先後被歸分為「生番」、「化番」(歸化生番)、日本の学者たち(伊能嘉矩[1900,1904]、粟野伝之丞[1900]、馬淵東一[1953]、移川子之蔵[1930]、小川尚義[1935,1944])は平埔族を九族或は十族に分類した、クバラン族はその中の一族でした。戦後、管理のために、国民政府は原住民を九族に分類した、居住地で山地山胞と平地山胞に分けます、クバラン族はどっちにも入らなかった、漢民族に登録されたか或は花蓮、台東のアミ族と結婚して平地山胞に登録されました。

1980年代末、花蓮県豊浜郷新社村のクバラン人に民族意識が蘇られて、政治或は文化的にいろんな方法で正名を挑んだ、十数年の努力で、民進党政府は2002年12月に独自の民族としての認可を受け、台湾における11番目の原住民とされた。

 

【地理分布】

クバラン族群の配布図

清朝の《クバラン志略》、《東槎紀略》、《蘭中番俗》などの文献にクバラン族伝統の生活様子を記録しました。言い伝えによると、クバラン族の祖先は南の島Sanasai (Sunasai)から海を渡って台湾に着きました、宜蘭平原に着いた時、アタルヤ族と戦ってアタルヤ族の土地を奪いました。クバランの居住地は水源が豊富し、雪山山脈と中央山脈に囲まれて、19世紀漢民族が進入する前に、クバラン族は外敵からの嫌がらせが避けられた、最盛期の時に村落は蘭陽渓を境界とし、北側を「西勢番」、南側は「東勢番」と称していた。36~40社もあった。

清朝乾隆帝、嘉慶年の時に漢民族が侵入し始めて、クバラン人の土地がなくしつづ。道光10~20年(1830~1840年)の間に一部の住民が漢民族により圧迫を受けていたから大規模の遷移をした。蘭陽渓北側の武暖などの社が今の頭城の方向へ移動;南側の加礼宛社が蘇澳、南方澳、花蓮平原へと移動した。花蓮北部の奇莱平原へ遷移する族人は旧加礼宛社の人がメインで、加礼宛港から出発したから加礼宛人にも呼ばれる。光緒四年(1878年)武官の陳輝煌は族人の間に激しい衝突が発生しました、これは有名の「加礼宛事件」でした、その後、清朝は再発を防ぐために、加礼宛人を台東縦谷と花蓮平原一帯へ移動させた、新社、立徳、大峰など。

 

【社会組織と構造】

考古の研究によると、クバラン族の村は長期定住性の中小型の部落でした。母系社会でした、夫は妻に従い、子供は母に従い;漢民族と通婚後、父系しゃかいの性質が強くなった。

今の花蓮県豊濱郷新社村に村長、村幹事、鄰長などの役者が設置され、族人から顧問、頭目、副頭目を推薦して役者と共同に村を管理する。村の青年会にも会長、副会長を設置して、豊年祭などの祭りの業務を処理する。

既存の文献と長老の記憶によれば、クバラン族には年齢制度があった、花蓮県豊濱郷新社村にはsla:lの年齢階級組織で村の人を集めた、頭目より家の建設と道路の修理のために若い男性を集まって仕事を配布した、この制度は1960年末に海岸道路の開通により段々なくした。1991年豊年祭のために年齢階級を基に「青年会」が創られた、しかし、日常生活にあまり関わらないから族人、主催者さえ階級の分類方法が覚えられない。

 

【生産方法と食文化】

伝統の魚のカゴ

カバラン人は海に隣する宜蘭平原に住む、農業と漁猟で生計を立てる、粟、トウモロコシ、サトイモと魚が主食です。今か花蓮県新社のカバラン族はお米の他に魚の塩付け、うに、海苔、わかめなど宴会によく出てます。もち米はクバランの祭儀と日常生活に欠かせないもの;漢化のため特定の日にももち米で作った料理(団子、粽、鏡餅など)の料理を食べます。

1960年以後、花蓮県豊濱郷新社村の住民たちがお米の栽培の以外にはビンロウ、果物など経済植物の栽培を挑んだが予定通り結果が出なかった。資源が豊富ですが交通不便の原因で住民たちに現金収入をもたらすことが出来ません。1960年以後、都会での仕事が増えてきて若者たちが労働力の仕事を求めて出稼ぎにいた。近年観光事業の発展で若者が続々と故里へ帰ってきた。

クバラン人は自給自足の経済式だったが、捕った鹿の革、角を漢人に売ることもあった;普段族人が持っている瑠璃珠は漢人或はフィリピン、南太平洋との貿易で貰ったものと考えられます。

 

【祭儀文化と宗教信仰】

大峰クバラン海祭りの祭儀

クバラン族の婦人

クバラン族の信仰は儀式から究明できます、彼らは霊魂を神霊、祖霊、山霊、鬼と悪霊に分類する、人間の病は悪霊のいたずらと思います、儀式を通って払い出す。いろんな祭儀があります、例え占いの儀式subuli、新年祭祖の儀式palilin、少女の入巫と女巫の治療儀式kisayiz (kisaiiz/khisayiz)、女性を治療するの儀式pakalabi (pakalavi)、男性を治療する儀式pasniu、頸狩り後の帰還の祭儀と踊kataban、アミ族に深く影響される海の祭儀sacepoと北部アミ族の豊年祭Lalikitなど。

キリスト教、カトリック教の伝来と漢民族の信仰の影響で、クバラン人の信仰がますます複雑、多元化になる。カナダの宣教士馬偕が宜蘭平原と花東平原へ宣教しに来て、クバラン人を漢民族の信仰を捨てると要求した、クバラン伝統の祭祖儀式の開催を禁止した。馬偕は蘭陽平原にあるクバランの集落に計25軒の教会を建てた、ここで馬偕とキリスト教がクバラン人に対する影響力が一目わかります。

外来宗教と日本政府の命令で、クバラン人の伝統的な儀式が徐々に捨てられて、しかし、祭祖儀式だけがこっそりと保留されました、クバラン人の感情と信仰が祖霊とわけることが出来ない。1987年から一部の祭儀例えkisayizが文化の披露と正名にニーズで新社村に再開しました。









 

バナナの繊維で作った布

クバラン族のバナナの繊維でできた携帯用ふくろ

芸術家ー阿水

【工芸、芸術と音楽】

国立台湾博物館にカバラン族木彫りの柱と壁の絵が収蔵されてます、これらの彫刻品は男子会所のものと思われます、人の像、宴会の様子、鹿、魚、ビンロウなどの動植物が描かれます。国立台湾大学人類学科の陳列室にカバラン族陶器に文様をつける道具が収蔵されます、この原始的な焼き方は漢民族の技法に切り替えた。

バナナ布の編織はカバラン族なり独特の技法です、織る前に材料は複雑な手順で処理されます。このような技術は余り見当たらない、使う材料はフィリピンと沖縄人のバナナ布が違うから、カバラン族にとって重要な伝統工芸の象徴である、文化の展示会によく紹介されます。

Kisayizはカバラン族伝統的な治療の祭儀です、1987年に台湾省立博物館(今の国立台湾博物館)で「豊濱の夜」のイベントが開かれ、そこで初めて披露した、その後、いろんなイベントに重要な節目になった;一連の文化活動に招かれて、族人の自意識高調で「豊年祭」が再開した。しかし、Kisayizと豊年祭全部の内容が思い出せないから、今のは族人の同意を得て修正したものです、宗教信仰の儀式から観光性のショー化になった。

1987年に花蓮県新社の偕萬来氏が親族を集めて「豊濱の夜」Kisayizを披露した、カバラン族の族名の回復と文化振興の火がつけた。族人たちは正式、非正式いろんな抗議活動で政府に陳情した。カバラン族独特の踊り、歌、工芸技法、食文化で皆にカバラン族は実際に存在してることをアピールした。

 

【族群與政府關係】

一連の正名活動は花蓮県豊濱郷新社村の皆によて行った、1991年から1996年の間に「花蓮県カバラン族協進会」、「カバラン族文化基金会」、「カバラン族復名促進会」、「カバラン族旅北聯誼会」などの組織が成立した。宜蘭県政府から支持を得て母語の教材を編集して、新社の偕萬来氏が宜蘭に招かれて母語の授業を開いた、これら行動で族群に対する意識を高まって、記憶を呼び戻す、族人の共同感を強化する。

 

【その他】

19世紀の宜蘭平原は多民族共存の所でした。クバラン族は平原とアタルヤ族は山地各地の領域があった、漢民族と西の平埔族の侵入で徐々に状況が変わりました。嘉慶元年(1796年)から漢民族がクバラン族とアタルヤ族の間の土地に侵入しそして徐々に山地の方へと進む;嘉慶九年から15年(1810年)の間に、潘賢文が率いた西部の平埔族が開墾のために宜蘭平原にやってきた、一度漢民族の地位が揺るんだ、しかし戦いで平埔族が負けた、土地が漢民族に奪われた、同治と光緒の間自ら居住地を廃棄して漢人にお金を借りて、カバラン族と一緒に三星地区を開墾した;元々広い土地を持っていたカバランの人は漢民族に土地が騙されて、奪われた生活できなくなり、一部の人は花蓮と台東へ移り、或は山奥へ退避する、宜蘭平原は漢民族のものになった。

今宜蘭に住んでるカバラン族人は通婚、わざと身分を隠して族群弁別が困難になる;道光、光緒年間(1840~1875年)に花蓮、台東へ遷移する漢人が少ないからここに住むカバラン人の間に部分の祭儀と言葉が残されてます、しかし、アミ族と隣に住むから通婚が頻繁になって、今新社村のカバラン人の多くはアミ族の血が流れてます。頻繁に各族と交流するから新社村のカバラン人はアミ族語、台湾語、日本語、中国語が話せます。1970年代から都会の新社人は「新社クバラン郷親聯誼会」を作る、定期的にふれあい会を開きます。

 

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